【体験談】熊本地震体験を今後の防災対策の参考に!子供を抱えての避難の難しさ

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2017/08/01

地震で被災した親子。親が子供を守っている様子

2016年4月14日木曜日、午後9時26分頃に熊本地震が発生。一連の揺れは震度6・震度7を記録し、大きな被害がありました。

この地震が原因で亡くなられた方々に、心よりご冥福をお祈りいたします。

私自身はこの地震で3人の幼児を抱えての避難生活を送りました。人生で初めて体験した大きな揺れでした。

しばらくは思い出すのが怖かった地震も、今は「忘れてはいけない」と心境の変化があり、またママさんたちが防災への興味を持ってくれればと思い、体験記をご紹介します。

怪我や生死の描写はありませんので、落ち着いて読める内容です。ですが、地震・災害のフラッシュバックがある方は、無理をして読まないことおすすめします。

4月14日木曜日、熊本地震が発生したときのこと

私のうちの家族構成は、夫婦と子供3人です。元気な双子の息子たちは3歳、娘は1歳でまだ歩くことはできず、はいはいでした。

とあるマンションの2階に住んでおり、この土地に引っ越して2週間だったので知り合いはいない状態でした。

いつもは帰りの遅い夫が休日で、リビングでタバコをふかしくつろいでいました。リビングと寝室は続きになっており、9時頃に寝たお兄ちゃんたちが寝息をたてているのが見えています。

1歳の娘はまだ目がキラキラして寝そうになく、私はコーヒーを1杯飲んでから寝かしつけようと思っていたところでした。家族がいるリビングで、それはとても平和な光景でした。

そこにいきなり「ゴゴゴゴゴゴ」という音が響いてきました。これを地鳴りというのでしょうか、360度、地面の底から「ゴゴゴゴゴゴ」の音がだんだん大きくなります。

時間にして30秒ほどだと感じましたが、危機感を持つのに十分でした。地鳴りのあと、マンション自体が大きな揺れに襲われ、自分の体が強い力に左右に振り回されます。

私は3人の子供の名前を叫びながら、たった2・3メートル先の子供に辿り着くのに苦労しました。娘を抱えて、やっと寝ているお兄ちゃん達のところへ辿り着きました。

私は声を震わせながら「テ、テレビ!テレビつけよう!」と言いましたが、次の揺れが襲ってきました。布団の上で家族5人でかたまり、揺れに耐えていました。

息子たちは「?」という感じでぼんやりしていました。寝ていたところだったので、夢か現実か分からなかったと思います。

娘の顔を見ると場違いにもニコッと笑ってくれ、逆にそれが「守らなければ」という思いを強くしました。

寝室に洋服タンスを置いているのが悔やまれました。悔やんでもどうすることもできず、タンスが倒れても大丈夫な場所で揺れが落ち着くのを待ちました。

揺れと揺れの間に夫はガスの元栓をしめて「避難所へ行くぞ」と言い出しました。私は動揺しながらも荷物をまとめることに集中して、10分ほどで貴重品・毛布・水・食料・ミルク・お湯・少しの着替えなどをバッグに詰め込みました。

抱っこひもでしっかりと娘と自分をつなぎ、家族で玄関を出ました。

車で避難所へ行く途中、自衛隊のヘリの音が聞こえて安心する

家族5人車にのり、夫の運転で避難所へ向かいます。避難所の前の道路には車が数台止まっていて「どのくらいの規模の災害が起こっているのだろう」と不安な空気が漂っていました。

駐車して「様子をみてくる」と夫が車おりて、近くの住人と話していました。暗い車の中、お兄ちゃん達がきょとんとした顔をしていました。

「こ、こわいねー。キラキラでも歌う?」と声をかけましたが、「キラキラ・・・」と言ったあと歌いませんでした。「落ち着かせようとした声かけが失敗したわ」と思いながら、私は外を見ました。

「おりるぞ」夫の声がきこえます。私が車を降りた途端に、今までほんんど黙っていたお兄ちゃんたちが「ママ―!ママー!」とパニック状態に。

「順番におろすから大丈夫よ!」チャイルドシートのベルトを外しながら「この子たちも異変を察知しているんだ」と思いました。子供の不安が握った手から伝わってきました。

そのとき自衛隊のヘリの「バババババ」という音が聞こえて、この事態を確認しようとしていることが分かりました。もし最悪の事態が起こっていても、自衛隊の救援はあると予想して心強く感じました。

避難所には7家族くらい、そこでも大きな揺れに襲われる

避難所を管理している女性の方が「あちらの部屋で休んでください」と声をかけてくれました。「ありがとうございます」と部屋にあがらせてもらいました。20畳くらいの畳の部屋です。

靴を玄関に置きっぱなしにするか、休んでいるところまで持っていくか迷いました。電気が消えた場合大変だと思い、持っていくことにしました。

「ゴゴゴゴゴ」とまたも不吉な音が聞こえたかと思うと、大きな揺れが繰り返します。

近くにいた女性が「こ、怖いですね。ここにいて安全なのかしら?」と言いました。私も不安で「本当に。どこが安全なのか分かりませんね」と答えました。

畳の避難所だったので横になることができ、一夜を過ごしました。7家族くらいいて、乳児を抱えているお母さんや小学生、ご高齢の方、年齢層は幅広く家族でかたまっていました。

ご高齢の方はどっしりと構えているように見え、孫と思われる子供を落ち着かせていました。

私は「揺れがこれで終わりますように」と願い、子供を寝かしつけました。私自身はよく眠れないまま、14日が終わります。

4月15日金曜日、余震がありながらも嵐の前の静けさ

朝になり、避難所が落ち着いた雰囲気になり、何家族か帰宅していなくなりました。私たち家族もマンションに戻ることにして、スーパーにたちより買い物をして帰ります。

台所で料理ができたので、家族で普通にお昼ご飯を食べることができました。このまま日常に戻るのか、大きな揺れがくるのか予想がつきませんでした。

とにかくリビングの一か所に荷物をまとめて、もし次ゆれたときに備えていました。私は子供たちに録画したアニメを見せながら、警戒しながらも家事をしていました。

夫は頻繁に会社と連絡を取り合っているようでした。晴れていたので窓からは明るい日差しがさしていまます。

夕方ごろ、とうとうマンションの水が止まってしまいました。不安がつのっていきます。

4月16日土曜日早朝、のちに本震と呼ばれる大きな揺れ

私たち夫婦は、15日の夜から眠れずに日付が変わっても起きていました。子供たちは寝ていますが、嫌な予感がぬぐえません。

早朝1時25分、大きな揺れが2回家族を襲いました。今度は一瞬で電気が消えました。また布団の上で家族で固まって、揺れを耐えます。のちに本震と呼ばれた大きな揺れです。

大きな揺れの中、家族5人で布団の上でかたまっていました。私は子供を抱きしめながら「こわいーっ!」と叫んでいました。

頭の中は「子供が子供が子供がっ」とパニック状態で、14日の揺れより怖くてつい声が出てしまったのでした。

夫から「うるさい、お前が怖がると子供が不安になるだろう」と注意されハッとし、大きな揺れの中でも冷静を保とうと、何とか唇を噛んでいました。

揺れが継続している中、子供たちに「大丈夫だよ」と言い聞かせました。夫婦で何も声をかけなくても、避難所を目指すことは分かっていました。

暗闇のなか、震える手で子供たちに靴下をはかせました。3人に靴下をはかせる時間がとても長く感じました。無言で荷物を持ち家を出ました。

車に乗り込むため、駐車場に出ましたが、激しい揺れが続きます。立っていられず、座り込みました。座りながら、娘を抱えて進みます。なかなか車に辿り着けず、車に乗るまでもどかしい気持ちでした。

16日の時点で避難者が9万人を超えると報道されており、私たち家族が学校に避難すると、運動場には100台以上あるかと思う車、何百人という人でごった返していました。

深夜の学校にたくさんの車のライトが光り輝いているのは異様な光景でした。

捨てようと思っていた新聞紙の束が車に置いてあり、私は娘を抱っこしながら、運動場に座っている方に「シートがわりに使ってください」と配りました。それぐらいしかできませんでした。

1時間もしないうちに体育館が解放され、続々と人が入っていきました。何百人かがそれぞれの場所に座ったころ、市か県の職員と思われる女性が体育館の中央に立ち、スピーカーを持っていました。

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支援がくる3日間ほど、手持ちの水が「命の水」になるというお話

シンとした体育館。多くの人が職員の方に注目しています。そして「必ず支援はきます」と断言してくれました。

ただ、手持ちの水が支援がくるまでの「命の水」になるので大切に飲んでくださいということでした。

体育館の電気はつけっぱなしのまま、何百人もいるのに静かでした。深夜の時間帯なので、皆さんが寝ようとしています。

夫と双子のお兄ちゃんの一人はすぐに寝息をたてました。もう一人の双子のお兄ちゃんは「毛布がない」と泣き出しました。妹もつられて泣きました。

毛布は家族で2枚で足りると思い、子供が寝るときに使うキャラクターの毛布を持ってきていなかったのです。これがものすごく悔やまれました。不安な時こそいつもの毛布が必要だったのに。

余震が続いていて外に出るのは危険だと言われていたので、外にも出れず、背中をよしよしするしかありませんでした。周囲に迷惑をかけているので、苦情を言われても仕方がない状況でした。

二人の子供は40分ほど泣き続け、くたびれるとやっと眠りました。私はホッとして、周囲の方に申しわけないと思いながら目を閉じました。

寝ている間にも余震があり、何百台のスマホや携帯の地震アラームが一斉に体育館全体に響いていました。

多くの人はあまりに多発する余震に慣れてきて、地震アラームを消しては寝ていました。
空が明るくなりやっと朝がきました。

支援が届き始めて子供にパンが配られる

私は何とか少し眠れて、また子供にパンの配給があり一安心しました。夫は会社へ出社し、子供と私、昼間は4人で避難所で過ごしました。

飲み物・食べ物は少しありましたが、紙コップや紙皿は持っていませんでした。水も数本で「私の意識が低くて備蓄をしていなかった。家族に窮屈な思いをさせている」と思っていました。

15日のスーパーで買ったものが備蓄になっていました。この時、買い物できただけでもラッキーでした。ただ、この物資で家族5人どのくらい持つのか不安でした。

「寝る前に子供が泣いて大変だったでしょう」隣に座っていた奥さんが話しかけてくれました。

「あの、すごくうるさくしてしまって。本当に申し訳ありませんでした」と謝ると「大丈夫ですよ」と笑ってくれ、心配な気持ちで見守っていただけていたと知り心が温かくなりました。

奥さんは防災グッズをたくさん持っており、2リットルの水数本と紙コップ・紙皿をわけてくださいました。自分の至らなさに恐縮しつつ、受け取りました。

「東日本大震災があったのに、備蓄していなくて」そう言うと「難しく考えなくていいのよ。日常の延長と思って、普段食べているものを少しだけ多くストックすればいいの」そう教えてくれました。

こういった考えを「日常備蓄」といい、防災用の特別な食品を買わなくても、多めに買った食品を日常で消費・買い出しを繰り返すということを学びました。少し多めの状態をキープするのです。

避難所では大人にも水や食料の配給が届くようになりました。大人用・子供用のオムツの物資もいくつか置かれていました。またミルク用優先で、ポットのお湯の利用ができるようになりました。

学校の運動場には車中泊をしている人が多くいて、エコノミー症候群の注意喚起がされていました。

一人で避難していて肩身を狭そうにしている方、体が不自由な方、乳児を抱えている方、ペットを連れている方など、困難や不自由、不安を抱えている人が多くいました。

幼児3人のトイレ問題はオムツで乗り切りました

避難所のトイレは大人は問題なく使えました。水もプールの水が使用できて、何とか衛生状態を保っていました。

問題は頻繁にトイレが必要な子供たちでした。3歳が二人と1歳が一人。一人のトイレのために、避難している場所を離れてトイレに行くのは大変だと感じていました。

また、慣れない和式トイレでしたので、失敗したらお掃除するためのティッシュペーパーや雑巾が必要になると思い、夜だけオムツだったお兄ちゃんたちも昼間もオムツにしてもらい乗り切りました。1歳の娘はもともとオムツでした。

外で遊べないのでシーツの上ででんぐり返しさせたりして、なるべく体を動かす時間を持ちました。

夫が仕事から帰ってくると、家に一時帰宅したらしく、キャラクターの毛布を持ってきてくれました。これで何とか今夜は眠ってくれると思い一安心しました。

また他県の姉から連絡があり、「明日知り合いが物資を学校に運んでくれるから、受け取って」と言ってくれました。

私たち家族だけではなく、避難所全体で必要と思われる水やおにぎりを作るためのラップなどを持ってきてくれるとのことでした。

私は姉に娘のミルクのことを相談しました。この時娘は1歳3か月で、普段は寝る前に1回のんで歯を磨いて寝るというサイクルでした。

この缶が終わったら、ミルクももう終わりと思っていたのでストックを持っていませんでした。それがこの地震で飲む量が3倍になり、いつなくなるかとハラハラしていました。

卒業すると思われたミルク・オムツが地震で逆戻りしてしまいました。ミルク缶は別ルートでも姉の知人が早めに送ってくれるとのこと。申し出が大変ありがたく、ミルクの銘柄を伝えました。

夜11時頃には避難所は静かになりました。私は目がさえて眠れそうにありませんでしたが、長い長い4月16日が終わりました。本当に、とても長い1日でした。

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4月17日日曜日、14日から17日9時まで地震の回数478回

県内の避難者は18万3千人と報道され、余震も続いていました。学校ではボランティアをしている学生が多くいて、本当に助かり感謝の気持ちでいっぱいでした。

小雨の中、おにぎりや水の配給があり並びました。持ちきれないので、配給には品物をいれるビニールがかかせません。

娘を抱っこ紐で抱えて、両手で双子のお兄ちゃん達の手を握りながら配給の列に並んでいました。すると、昨日話しかけてくれた奥さんと、親切なご高齢の女性が「お子さんの手をつなぐわよ」と声をかけてくださいました。

双子のお兄ちゃん達が手を繋いでもらって、私は両手があいて、気持ちの上での肩の荷が軽くなったように感じました。優しさを感じて涙が出そうになりました。

子供を連れていると身動きがとれなくて大変ですが、見守ってもらっているという優しさを感じることが多かったです。

夜、校門の前で待っていると、姉の知り合いの方が車で到着。余震のなか危険が伴う運転だったと思います。挨拶もそこそこに荷物をいただきました。

物資が段ボールで10箱ぐらい届き、中学生の男の子たちに運ぶのを手伝ってもらいました。姉だけでなく、友人・知人の方々も物資に協力してくれたとのことでした。

ボランティアの運営所のところまで運び寄付すると「ラップが本当に助かります」と言ってくださいました。他にも物資が積まれていて心強く感じました。

ボランティアのかた自身も被災しています。皆が助け合う雰囲気でした。

4月18日月曜日、家族は他県に一時避難

ニュースでは原子力規制委員会の臨時会合が開かれたと報道されていました。九州にも原子力発電所があります。心配な案件でしたが今のところ「問題ない」とのことでした。

私たち家族は他県に一時避難することにしました。避難所でお世話になった方々にお礼をいい、車で出発しました。

すぐ近くの益城町を通り過ぎたとき、衝撃の光景を目にしました。あまりにも家屋の倒壊が激しくて、たった少しの地域の差でこんなに被害が違うのかと思いました。

この光景は忘れられないと思い、黙とうして通り過ぎました。

反対側の道路は物資のトラックで渋滞していました。ありがたく思うのと同時に、他県に避難することに罪悪感もありました。

無事に避難先に到着すると、夫はすぐ熊本に帰り仕事に復帰しました。私は子供3人と避難先の実家で3ヶ月ほど過ごし、余震が落ち着いてから熊本に戻りました。

孫に優しいおばあちゃんが一緒にいてくれたので、私は助けてもらいながら落ち着いて育児ができました。

この間に娘は歩けるようになり、お兄ちゃん達は夜のオムツがとれました。どんな状況でも子供は成長するんだなあと思いました。

ただ、お兄ちゃん達は4歳になった今も地震のことをしっかり覚えていて、避難所だった学校の前を通ると「ここでおにぎりもらったよ」と言ったり「地震です、地震です!ウー!ウー!」と地震アラームの真似をしています。

現在は元気でも、しばらくたってから子供の元気がないなどの変化が続くときは、災害ストレスがなかったか思い出してみて、それを含めて専門家に相談することをおすすめします。

災害ストレスは長期化することもあり、何年もしてから映像をみてパニックを起こすこともあるそうです。

子供の災害ストレスが心配なときは専門家を頼りましょう。

  • 体調不良や言葉づかい、行動の変化が1ヶ月以上続くとき
  • 小児科、心療内科、児童精神科、病院や大学のカウンセラーを受診

子供の行動の変化は年齢によっても違いますので、相談するときは普段の様子を伝えれるようにしておくといいと思います。

地震発生から一年以上、現在の熊本の状況と私の家族

現在の私たちの家族は、子供が保育園に通い、夫婦共働きという普通の暮らしをしています。近所に知り合いもできて、子供の成長を見守りながら過ごしています。

熊本県全体では、2016年11月に最後の避難所が閉鎖されました。

現在は仮設住宅に暮らしている方、自宅やマンションの補修をしている方、お店の再開や閉鎖など、傷はありながらもゆっくりと復興していると感じています。

地震のことを思い出すと、真っ暗闇の中に笑顔の子供の姿が浮いてみえ、早く手を伸ばして捕まえなければという思いに駆られていました。地震が発生したときのイメージです。

しかし1年以上たった今、記憶は薄れています。忘れてしまいそうになることのほうが怖いと思うようになりました。

それでもこの地震で学んだことが多く、日常備蓄を始めたことや、寝室にタンスは置かないなどの対策をしています。

地震の多い日本。ママさんたちに限らず誰もが備える必要があると思います。今、何もストックしていないという方。たった1本のペットボトルの水でもいいんです。

支援がくる3日間ほど、それが家族の「命の水」になります。

たとえ準備していても、全ての物資を持ち運ぶことは困難かもしれません。それでも1本でも水を持ち運ぶことができれば、落ち着くことができるのです。

身構えないで「もしいま逃げるとしたら何をもっていくか」と一度考えてみませんか。子供でも3歳ぐらいならリュックを背負えて荷物を運ぶ戦力になってくれます。

ここまで私一個人の出来事を読んでいただきありがとうございました。あのとき助けていただいた方々、日本全国・海外からの支援に今も感謝しております。

以上、熊本地震の体験記でした。

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